
小学生の頃はいつも父の握りっぺを嗅がされていました。いいものをやると握りこぶしを差し出されそれを受け取ろうとするといつもそれは握りっぺでした。延々と数えくれないくらいに何回も何回も同じことを繰り返されていました。
あの頃は疑うとうことを知らずに今度こそなにかいいものが貰えるのではないかと毎回父の差し出す握り拳の中身に期待していました。
そのことがトラウマになってしまったのでしょうか。今は信じることがとても苦手な大人になってしまいました。小さな裏切りの積み重ねが信じることの怖さにつながっているのかもしれません。
そんな信じられらい人生を過ごしているある日、信じるものは救われるのだろうか?と疑問を抱きました。今の自分は信じることができないから救われてないのだろうか?
ネットでいろいろな記事を読んで納得できた考えは「信じられると不安を取り除ける」ということでした。
例えば「努力は必ず報われる」と信じた場合、努力しても報われなかったらどうしよう?という不安を取り除くことができるということです。不安や心配を感じずに努力することだけに邁進できます。
恋人のことを信じれば浮気を心配せずに済みます。友人のことを信じれば本当はどう思われているのだろう?という不安を感じずに済みます。
信じることができれば余計な不安や心配をなくすことができるということです。人、モノ、情報、そして自分を信じるということはそういうことなんだと思いました。
ただし信じるためには裏切られる覚悟を持つことが必要です。裏切られてもいいから信じるという本気と覚悟と強さも必要です。そのくらいの強い思いで信じることができたときに不安や心配を取り除くことができるのではないかと思います。
これまでの人生を振り返るといつも信じたいけども信じられない中途半端な気持ちだったと思います。だから不安と心配ばかりを感じて信じることもできなかったし信じてもらうこともできなかったし裏切られてばかりいたのでしょう。
信じるものは救われる。本気で強い気持ちで信じればきっと迷わず不安も心配も感じずに良い結果につながる行動だけに没頭できる。
これからは覚悟を持って信じていきたいです。